間が空いてしまったが

 毎日書くと言いながら、中々書けず、2週間以上経ってしまった。このブログは、大体2つの内容から構成される。

 一つは、その日の父の様子である。これは、後々の介護に際して、公的機関や医療機関に様々なサービス提供をお願いする上で必要となる父に関するこれまでの経緯等を含む情報を事前にまとめておきたいからである。

 もう一つは、認知症発症から今日までの父の様子に関する備忘録である。4月の中頃に発症して以来、もう2カ月がたったが、日々、色々ありすぎて、4月の事を含めて、過去の事を忘れてしまいがちである。それゆえに、自分が忘れないうちに、認知症の発症後、これまで起きたことをまとめておきたいという思いがある。

 それではまず、その日のというか昨日から今の父の様子を書いていく。その前に、父に現れた症状を述べておくと、記憶障害ということに尽きるであろう。おそらくであるが、父の記憶は、10数年前の自分が職場を定年退職した直後にまでさかのぼっている。父は教員であったが、退職後、しばらく非正規の教員として、元の職場で仕事をしていた。この時の記憶が、今も残っているようだ。したがって、父の頭の中では、今も教員であるという認識である。現在の父の年齢は83歳。83歳の人間が教壇にたてるはずもないのであるが、自分は教員であり、何時も明日の時間割はどうなるのか、自分の使う教科書はどうなっているのかを、元の職場に電話している。加えて、元の職場の同僚の自宅に電話をする。毎日毎日、同じことを繰り返している。いくら私や元の職場の同僚が説明しても結局その日のうちに、下手をすると数時間後には忘れてしまう。忘れてしまうと、また、電話をかける。電話をかけられた方は、迷惑な話である。元の職場の同僚から私にあった連絡によれば、一日10回から15回、父から電話があったようである。このような父からの電話攻撃に対しては、留守番電話機能や着信拒否等をして対応しているようである。父はメール等PCの智識が全くなく、ひたすら家の固定電話からかける。

電話をかけた相手が居留守を使っているのもわからず、電話がかかるまで何度もかける。固定電話の傍に小さい折り畳み式の脚立を置いて、そこに座ってひたすら電話する姿は、最初こそ、不気味に思ったり、不快に思ったりもした。しかし、慣れとは恐ろしいもので、段々どうでもよくなってくるというか、もはや哀れを感じるぐらいにまで、こちらの意識は、不感症になりつつある。

 

 ちなみに昨日も午前中に職場に電話をしたのち、案の定、電話をかけたこともを忘れて、午後に何度か電話をするが、土曜日ゆえに職場の人もいなくなり、電話をかけても通じなくなる。そのあと、夕方に、元の職場の同僚数人に電話をかけるが居留守をつかわれて、電話が通じず不機嫌になる。父は、PCの智識もそうだが、電話の機能についての智識もゼロなため、留守番電話の機能も分からない。本当に不在であると認識している。基本的には、毎日がこんな感じである。

 

 ここからは、4月以降に起きたことの備忘録である。

 最初に発症したのは4月の半ばぐらいである。突然、「書類がない!」と騒ぎ始めたのが発端である。何の書類が無いのかを聞くと、非常勤の勤務に関する書類が無くなったとのことである。聞いているこちらは何のことだかわからないが、非常勤だの授業だのといった事について、ひたすら同じ内容の話を繰り返す父にあっけにとられたのは何となく覚えている。ここから、かっての職場に、そしてかっての職場の同僚への電話攻撃が始まる。私も母も、ひたすら電話をかける父に既に退職している。退職して10数年隠居生活を送っている旨をこんこんと説明するが、父は全く理解しない。正確には理解しようと努力はしているようだが、結局、忘却しているという事実を受入れることを拒絶したいのかどうか分からないが、我々の意見を無視して、ひたすら電話をかけ続ける。こちらが説得しようとすると、声を荒げて、こちらの意見を否定したり、無視するようになる。

 私も、そして同居している母も、この時点では、恐らく目の前の現実を受け入れらなかったのだと思うし、相手先に迷惑がかかることに怯え、とにかく理詰めで父親を説得しようとしていたと思う。なんというか、無理やり力づくでという感じで説得しようとしていたように、今振り返ると思える。

 

本日は、このくらいで筆を置く。ちゃんと構成を整えてから書くべきであった。