私も人のことを言えないか。

 この記事を書く前に、自分が書いた以前の記事を読み返してみると、結構同じことを何度も書いていたことに気づく。例えば、父のメモ帳のくだりである。同じことであるにもかかわらず、さも新しいことのように書いてしまっている。ある意味、私も痴呆症のようなものなんじゃないかと、ちょっと不安になる。昨日書いたことをもう忘れてしまったのではないかと、なんというか、父をあまり笑えないのである。せめて、こうやって、気づくことができた点で、まだマシなのだろうが、大いに改善する余地がある。といっても、認知症は本当に改善すること等できるのであろうか?認知症の発症の原因は、発症の20年前とか30年前に既に脳内に形成されているといった趣旨の話をネットで読んだ。もしそうだとしたら、そうした、原因を、その後の人生の中で完全に除去することができるのであろうか。もう、運命として受け入れるしかないのであろうか。それとも、知的な活動や社会との繋がりを意識することや有酸素運動の実践で発症そのものを遅らせることができるのだろうか。

 もっとも、発症を遅らせるだけでも、私は満足である。いま、発症はさすがに勘弁である。でも、ひどいことばかりの認知症であるが、一つだけ良いことがある。それは、時間の大切さを学ぶことができたことだ。とにかく、「時間は大切」、「人生は一度きり」ということは、散々耳にタコができるほど聞かされているし、頭でもわかっているつもりである。でも、そのために何かを実行するとなると、中々その実行までに及ばなかった。ところが、生きた「反面教師」というと、不謹慎のそしりを免れないかもしれないが、そんな対象が突然目の前に現れたのである。イヤでも自分を見つめ直すことを迫られるのである。その意味では、父は私に成長の機会を与えてくれた。ボンクラな私に最後の成長の機会を与えてくれた。もっとも、今の父にそんな意味で感謝を伝えても不機嫌になるだけなのだろうが。

 今日は朝から、病院に薬をもらいに行くとのこと。一時間近く離れた場所に病院があるため、不安ではあるが、もう何かあったら運命だと思ってあきらめている。とにかく、家に引き籠っているよりはましだと半ば言い聞かせている。しばらくしたら、GPS付のグッズを持たせようと思っている。精度は色々と改善の余地があるらしいが、色々試してみる価値はありそうである。

 

今日も一日、不愉快な一日になるかもしれないが、己が試される一日でもある。大切に過ごしていきたい。