裁判?、非人道的?、人権?

 昨日というか、今日の朝5時ぐらいまで、父と大喧嘩をしていた。なんとか、穏やかに過ごすという私の思いはあっさりぶち壊れてしまった。昨日も、血まみれのおしっこでおしっこのパックは真っ赤に染まっていた。また、カテーテルを引き抜こうとしたのだ。せっかく治りかけていたのに、また触る、これの繰り返しである。血が出ているから明日病院に行こうと言っても、行かないだのなんだの言っている。しまいには「こんなものを付けたのは誰だ?」と私を罵倒してきた。こんなものを付けたこと認めた覚えはないだの、私を非難してきた。確かに私がつけることにゴーサインを出したのだ。このままでは尿閉による被害は収まらないと思ったからだ。だが、その判断は、父からすれば独断に映ったようだ。その場に父がいたこともすっかり忘れているし、既にカテーテルを2カ月以上つけていて、その間、禄に病院に行って症状の説明も聞かなかった人間になんでここまでいわれるのだろうか。遂にはカテーテルのような非人道的、人権無視の拷問のような行為を行った病院に対して裁判を起こすとまで言ってきた。私もカッとなり、やれるもんならやってみろ、何時でも受けて立ってやると子供じみた対応をしてしまった。私は病院ではないが、治療に(勝手に?)同意した私に対しても非難してきたので、私も昨日は激高してしまった。

 

 昨日は、神社や寺に行って、意味もなく、父が安らかに生きることができるように等とお参りしたその日の内にこれである。

 

もうしんどい。色々と頭をよぎる。

なんか、悪化している。

 昨日、朝からトイレでごそごそしていると書いたが、昨日一日は本当にしんどかった。半日近い時間、父はトイレに引き籠っていた。こちらがトイレを使うから出てくれと言えば、出るのだが、こちらが用を終えるとまた、入る。これの繰り返しである。結局、要は、陰茎に付いたカテーテルをいじったの原因である。案の定、血が出て、おしっこも血が混じったものが出てきた。触るのを止めろとやめろと言っても抜こうとする。これの繰り返しである。母は、自治体の包括センターに電話をかけるものの、返答は医者の指示に従えである。私はある程度予想した通りだったので別に失望したりしなかった。父に医者に行こう言うと、今度は「絶対に行かない」と何故か強硬にはんたいされた。押し問答を繰り返すうちにかかりつけの医師の診療時間が終わってしまった。

 私が絶望している間も、父はトイレに入っている。しばらくすると、痛みは取れたらしいが、まだ、「おしっこが出る」といって、トイレに入っていくのである。この「おしっこが出る」というのがもし、父の尿意が復活したことを意味するのであれば、めでたいのだが、私の予想で単に尿道に入ったカテーテルの位置がずれたことによる違和感に過ぎないのではないかという気がする。これは素人の考えに過ぎないので、やっぱり、週明け、力づくでも連れて行くつもりである。

 ちなみにこのブログを書いている3月19日(日)午前8時42分、下の部屋から悲鳴が聞こえたので降りてみると、陰茎をいじって、カテーテルを引き抜こうとしたらしい。

本当に、ループ何周目の世界線なのか、新たな世界線に突入している感じである。

なんか朝からトイレでごそごそしている。

このブログを書いている、3月18日(土)午前6:55現在、父が下の部屋でごそごそ何かしている。トイレに行って自分でおしっこを排出しようとしたのだろう。このブログを書き終わったら、下に行くつもりだ。なんか、本当はすぐに確かめなければならないのかもしれないが、何というか気持ちが億劫になるというか、気分が乗らない。

 ところで、昨日もやはりカテーテルを外そうとした。何とか思いとどまったが、我々の方が、しんどくなってきている。いくら説明しても、父は、次の日には忘れて、勝手に毎日絶望している。漫画やアニメによくあるループもののジャンルと何ら変わらない。このしんどさは、中々わかってもらえないかもしれない。

 最近、父の事をあからさまに罵ったり、強い言葉でバカにするのを止めた。どうやって心穏やかにこの世界から旅立ってくれるのか、それだけを考えるようにしている。前にも書いたが、もう、父に対しては正直親しみもないし、むしろ憎悪や侮蔑の感情さえ生じることさえあるが、そうした感情を抱えながらも、これまで私に対して施してくれた恩には報いたいとは思う。

 取り敢えず、下の絵屋がおしっこまみれになっているか確認しにこれから下の部屋に降りていく。

 

管がいつ外れるのかを聞かれるのが一番つらいかも

 昨日は、一日、特に父の身に何か起こることもなく、淡々とした日常だったように思える。ただし、「淡々と」としたからと言って、穏やかな日常であったわけではない。

父は、尿道に付いたカテーテルをいつまでつけていなければならないのかと、私に何度も聞いてきた。私はそれに対して、わからない、医者にちゃんと聞け、今はそれをつけてリハビリをしなければならない、と何度も言う。恐らく父は全く納得していないし、はずしてくれと、結局、何度も私に懇願する。結局、私は、明日、医者に連絡してくれと言ってごまかすしかなかった。父は恐らく明日になれば、今日言った事も忘れてしまう。父の認知症の症状にすがるしかないのが自分でも情けないと思う。

 以前、私は、根本の部分のカテーテルを引き抜くことはできないが、そこから延びるチューブとおしっこを溜めるパックは適宜外すことができるということは何度も説明した。だが、父にこの方法を試すと今度はずしたがらなくなる。この方法の厄介な事路は、カテーテルから延びている部分に止め栓をつけることで、外におしっこが流れ出すのを止める代わりに、膀胱にどんどんおしっこがたまることにある。したがって、3~4時間ごとにおしっこを排出しなければならない。ところが、父は認知症であるため、これをいざやって、おしっこを出してくれと言っても、言うことを聞かないのだ。結局、12時間つけっぱなしでそのまま寝てしまった。なんとか、寝起きの頭が働いていない父を起こして、トイレに連れて行き、おしっこの排出に成功した。

 この苦い経験があるからこそ、止め栓の方法はできれば使いたくない。あと、最近思ったのは、無理に議論して説得するのでなく、少し、その場から離れるのが良いように思える。これも父の認知症の機能を逆手に取ったやり方であるが、父は長時間の思考がおそらく、あまりできなくなっており、疲労してしまうのだろう。このやりかただと、少なくとも、ダラダラこちらもダメージを負うことが少なくなるように思える。

 とりあえず、昨日は比較的早く寝たようだ。3月17日(金)、午前7時6分現在、まだ寝ている。

どうすれば怒らずに済むか

 認知症の人に対しては、とにかく穏やかに接することが重要だというのは、よく聞く。私の知り合いで、認知症の家族の世話をしていた人や医師も同じことを言う。確かに、その通りだと思う。私も怒りに任せて、声を荒げたりすることや、自分の日々のストレスをぶつけるのを自分の気づく限りの処では何とか抑えようとしている。

 今のところ、苛立つポイントは、父が尿道からカテーテルを引き抜こうとする時である。この時、私の頭の中には救急車で搬送された時の事を思い出して、つい声を荒げてしまう。昨日も引き抜こうとしている姿を見て、苛立ってしまいそうになった。

 兎に角、病院に明日行こうと言って、その場をしのぐことしかできないが、自分の怒りが家の空気をわるくするのであれば、 有効な手段は何度でも活用する。

 あと、最近は兎に角忙しいので、一段落したら、介護の知識をもう少し深めたい。色々と金銭的なことが気になったりする。

 これを書いている時、また、今日も病院へ付き添いに行くのかと思うと心底うんざりするのだが、これも少し見方を変えれば、私自身引き籠りがちな生活を送っているので外にでる良い機会のように思える。あと、できれば、タクシーを使うのは減らしていこうと思う。たまには足を使って歩いてもらう。足腰の筋肉が衰えている今の状況では酷かもしれないが、やっぱり歩く、それもお日様の出ている時間に歩くというは必要だと思う。

昨日は、シーツに血が・・・

 昨日は、外出していたので、あわてて帰ってきて、母に父の様子を尋ねたら、布団のシーツに血がついてたとのこと。また、カテーテルを引き抜こうとしたのかと思ったのだが、おしっこのパックを見ても血の混じったおしっこが入ってるわけではなく、痛みもないとのこと。一体どこをけがしたのか結局分からずじまいだった。差し当たり、4回目の救急車搬送は回避された。

 父は、一日中頭がぼおっとしていて、いろんなことが覚えていないと呟いていた。少しずつ、私たちの事や色んなこと、を忘れてしまうのだろうが、私はできるだけ父の言葉を記録できればと思っている。すでに私の中で父に対する敬意等は微塵も残ってはいないが、それでも、やっぱりやらなければならないと思っている。

憎しみや憎悪の感情とは別に、何か痕跡を残しておきたい。

毎日何を思って生きているのか。

 以前にも書いたが、父は、もう何もする気もないし、したいとも思わないと、私たちに言ったことがある。確かに、もう、職場にも昔の同僚にも電話をかけることもほとんどしない。ほんのたまに、思い出したように「明日職場に行くから」等と言ったりするが、ダラダラと結局寝ている。今も朝6時54分現在、自分で目覚ましをかけておきながら、ダラダラ寝ている。目覚ましの消し方が分からないのか、何度も何度も目覚ましが鳴っては消している。

 昨日は、私は、色々と自分の怒りを抑えることに全力を注いだ。それが功を奏したとはとても思えないのだが、比較的穏当な日々を過ごせたように思える。 

 

 

昨日は、また件の宗教の信者から電話があったようだ。本当にしつこいのだ。

上で穏当な日々と書いたが、全然穏当ではなかった。