写真をとる?仁義?

 昨日は、父がなんか一人ではしゃいでいた。なんでも電話がかかってきて、職場で写真をとるとのことである。私はいつどこで何に掲載する写真だと問うと、案の定、もごもご言い始め、「わからない」と呟いた。そして、またあちこち職場の元の同僚の方々の家に電話攻勢をし始めた。正月三が日である。認知症とは恐ろしいもので、そうした節目節目の行事だのなんだのお構いなしに平気で電話をかける。不安を解消したいという欲望が社会常識を簡単に超えていくのである。当然のことであるが、電話には誰も出ない。当たり前である。、むしろ電話に出て、父の相手をして頂こうものなら、こちらの方こそ申し訳ない気分になる。

 結局、誰も電話に出ないことでにより、写真の話は何も分からず、夜の11時に夕ご飯を食べ、さらに父は苛だったのか、洗面台だか、風呂場の掃除をだか補修を始めた。これが夜の1時半である。私はバカバカしくて寝た。

 そして、朝6時半に私は目が覚めてトイレに行くと、父が応接間のソファーに座って、なんか怒っていた。わけを聞くと、昨日電話があって、父にお礼がしたいから食事に誘いたいとのこと。そして我が家にお迎えに来るとのことである。私が、いつ誰が来るのかというと、父は「わからない」、「お前に何でいう必要がある」とか、言い始めたので、私もカチンときて、「それは錯覚だ」と呟いて、さっさと自室に引き籠った。

そして10時頃再び応接間に行くと、父が「最近の連中は不良気取りなんだな、礼だの仁義だの言ってくる」とかぶつくさ言ってきた。言うまでもないことだが、全部この御礼云々の話は全部父の脳内の話である。きっと過去には本当にあった話なのだと思う。だから、私は父がぶつくさ話をしていても何も言葉を返さなかった。正直、言葉のやり取りをすればするほどこちらの頭がおかしくなる。

 無視することが良くないということは分かっているのだが、私は自分の怒りや苛立ちをコントロールすることに今は専念した方が得策だと思っている。