昨日も大人しかった。

 昨日も父は大人しかった。いや、元の職場の同僚の何人かに電話をかけてはいたようだが、それほどしつこく電話をかけたわけではないようだ。では終日、何をしていたのか、イマイチ思い出せない。テレビ中毒でもある父は、アジア大会を見ていたのは何となく覚えている。特に柔道が放送されていたこともあり、結構熱心に見ていた気がする。テレビに向かって、「ヨシッ!」とか声を上げていた。ボケる前も柔道の試合はよくテレビを見て、歓声をあげていたのをふと思い出した。

 食事中、元の職場でもらった日程表を睨んでいる父に、私はもう行く必要もないのに何で見ているのかと尋ねると、父は、確かに仕事はないのだが、今でも相談を受けるんだと、自分に都合の良い、わけのわからない言葉で返答してきた。父は自分の仕事はないことは分かっているようだ。だけど新しい役割を勝手に見出し、勝手に頑張ろうとしている。

 父を見る度、思う。一人前の仕事をしてきた人の最後がこれなのかと。父のかかりつけの病院の先代の先生も認知症だったらしい。先代の先生は、自分はこんなに一生懸命人のために尽くしてきたのにと悔しがっていたそうだ。素晴らしいキャリアを築いてきた人の努力や無念を・・・・。

 私は、現金なもので、このブログを書いているうちにあれだけ憎み憎悪していた父に同情の念が湧いてしまった。こんなゴミブログを読んでいる人はほとんどいないだろうが、認知症の介護は、きれいごとでは済まないことは記録しておきたい。それはこの一年以上の介護で嫌というほど思い知らされた。父に対する同情や懐旧の念は時々起きて、それはあっという間に父の行動によってぶっ壊される。基本それの繰り返しだと私は思っている。